婁 叡(ろう えい、? - 570年)は、北魏末から北斉にかけての軍人。北斉の外戚。字は仏仁。本貫は太安郡狄那県。婁昭君(武明婁皇后)の兄の子にあたる。
経歴
北魏の南部尚書の婁抜(婁壮)の子として生まれた。若くして弓射や乗馬を好み、高歓の下で帳内都督をつとめた。中興2年(532年)、高歓が韓陵で爾朱氏を破る(韓陵の戦い)と、婁叡は開府儀同・驃騎大将軍となった。掖県子に封じられ、光州刺史に累進した。任地にあって収奪をほしいままにして高澄の叱責を受けた。後に九門県公に封じられた。北斉が建国されると、領軍将軍の位を受け、安定侯の別封を受けた。瀛州刺史となったが、醜行は改まらなかった。天保7年(556年)4月、魯陽蛮を討って撃破した。皇建元年(560年)、東安王に封じられ、豊州刺史に任じられた。大寧元年(561年)11月、司空となった。河清元年(562年)7月、高帰彦が冀州で反乱を起こすと、婁叡は反乱の鎮圧にあたった。帰還すると、司徒公に任じられた。河清3年(564年)、殺人の罪で尚書左丞の宋仲羨の弾劾を受けたが、赦免された。5月、太尉となった。11月、北周軍を軹関で撃破し、北周の将軍の楊𢷋らを捕らえた。大司馬となり、軍を率いて懸瓠におもむき、豫州の境に100日あまりとどまった。河清4年(565年)4月、法を犯して免官された。天統元年(565年)4月、太尉として再起した。天統2年(566年)10月、再び大司馬となった。天統3年(567年)8月、太傅となった。武平元年(570年)2月5日、死去した。右丞相・朔州刺史の位を追贈された。諡は武恭王といった。
子女
- 婁子彦(後嗣)
- 婁仲彦
脚注
伝記資料
- 『北斉書』巻15 列伝第7
- 『北斉書』巻48 列伝第40
- 『北史』巻80 列伝第68
- 斉故仮黄鉞右丞相東安婁王墓誌之銘(婁叡墓誌)
参考文献
- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。



